純愛ものとして有名な小説ですが、果たしてそうなのか。
気になるのは彼女からの手紙以外、一貫して主人公の一人称で描かれている点で、あき子との逢瀬の際、そのあき子の感情は全て主人公の推測を語っているにすぎない。「20年以上互いに一途に思い続けた悲恋」はここで怪しくなってくる。もしかしたらあき子は、浮気な人だったのでは。あき子の動向は、推測するほかない。しかし、その曖昧さが怪しい。ここから何がいえるのかというと・・・、作者は純愛クソ喰らえ、男の思い込みに過ぎんのだよワトソン君、みたいな心持でこの小説を書いたのではないか。華麗な文体で、浪漫文学の代表とも言われているがゆえに、安直に純愛モノと思いがちだが、そんな見方もできると思う、というか僕にはそうにしか思えなかった。
気になるのは彼女からの手紙以外、一貫して主人公の一人称で描かれている点で、あき子との逢瀬の際、そのあき子の感情は全て主人公の推測を語っているにすぎない。「20年以上互いに一途に思い続けた悲恋」はここで怪しくなってくる。もしかしたらあき子は、浮気な人だったのでは。あき子の動向は、推測するほかない。しかし、その曖昧さが怪しい。ここから何がいえるのかというと・・・、作者は純愛クソ喰らえ、男の思い込みに過ぎんのだよワトソン君、みたいな心持でこの小説を書いたのではないか。華麗な文体で、浪漫文学の代表とも言われているがゆえに、安直に純愛モノと思いがちだが、そんな見方もできると思う、というか僕にはそうにしか思えなかった。
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とっとこ動くぜチャップリン~。音楽は重要な演出手段として、いろいろ凝った使い方されているけど、街の灯をみる限り、チャップリン映画は音楽がストーリーそれ自体であり、同じくストーリーである映像と一緒に並走している感じだ。BGMとかSEって感じがしない。
徹底的に計算されつくしたチャップリンの演技あればこそ、音楽が並走できたんだろう。
私は,ある作品について「つまらない」と思う理由がおもしろいひとは書き手として信用できると思っている。
対して、「つまらない」理由がつまらない、というより、同じ感想を抱いた人の間でしか共有できないオナニー文章を無神経に晒す書き手は嫌いだ。性質が悪い書き手だと、同じ感想を抱かない人には自分の文章がただ不快になるだけと分かっていて晒すから、その神経を疑う。
よくわからないなら、「よく分からないけど、つまらなかった」と言えばいいのに、大抵そこかしこに書き散らす輩はそのプライドからか、「わからない」とは言わない。そして不快な感想を書き散らす。
実際100人中99.9人がつまらないと言う作品はいくらでもあるが、それに対して口汚くののしるだけというのは作品に対して不誠実だ(この場合は、製作者がカスタマーに対して不誠実ともいえるかもしれないけど)。そんな言葉で悦に浸っている姿は、傍から観てて気味が悪い。より多くの人間がつまらないと思う作品であればあるほど、その姿は自然に写ってしまう。でもやっぱり私には気味が悪い。
批評は難しい。事細かな技術論や、時代背景など語るだけでは良い批評はできない。良い批評は作品に対して誠実に立ち向かって、初めて出てくるものだと思う。オラクルみたいに振ってくるか、散々悩まされるかは、定かでないけど。
と、生意気なこと書いてる私は全然まともに批評できないから、正に口だけ男だ。でも常に上記のようなことは肝に銘じている。せめて、ゴミみたいな感想、批評は出さないようにと。
ツイッターに常駐していてブログが全然書けていない! まとめて書くようなことができればこちらに書きたいけど、どうなるかなあ
戦争と平和という対立項がある。すんごく大まかに言えば、一国の歴史はこの二つの状態の繰り返しといえるし、世界史とはその相互作用の結果と言えるだろう。乱暴な認識だと了解しつつ、敢えて使わせてもらう。言いたいのは純文学と大衆文学の境界線のことだ。
純文学と大衆文学というわけ方が有効になるのは「平和」状態のときだと思う。「戦争」状態のとき、文学は政治的に迎合するものと、批判的なものという区別にシフトチェンジする。純文学と大衆文学をわけるのは、大衆に傅く娯楽か否か、だと思うのだが、娯楽は「平和」状態の退屈が発生してはじめてそれを紛らわせるものが爆発的に大衆に広がる。故に「戦争」状態で大衆文学は発生しにくい。
「戦争」状態では、国の政治姿勢に文学は大きく依存すると思うが、この場合上記でわけた「政治迎合、政治批判」という対立軸は、「純文学、大衆文学」というそれと比べて、どちらがマジョリティになるかは不安定である。大衆文学はその名が示すとおり、マジョリティになる宿命がある。しかし「戦争」状態では、戦局に左右される。これは同時に、国民に対して情報が正確に伝わらない場合、政治迎合的な文学が大勢を占めることになり易いことを意味する。話を戻そう。戦局に左右される例は、ベトナム戦争時のアメリカを思い出すと分かりやすい。反戦ムードが海外にまで飛び火し、ジョン・レノンが神様になったあの状態は、戦争をしていたアメリカで、政治批判的文学(文学以外の表現も含む)をマジョリティにさせた。このとき、「平和」状態での「純文学、大衆文学」という区別とは別の論理が働いていたように思う。
「平和」状態ではマジョリティ(大衆文学)/マイノリティ(純文学)は固定されがちで、政治色が薄くなるが、「戦争」状態では政治色が濃く、さらに政治批判的文学と迎合的文学がマジョリティを巡って争う可塑性を持つ。そしてその争いはしばしば国柄や体制によってどちらが優勢になりやすいか変化する、ずるいゲームである。
とか書いてみたが、なんだかなあ。何が大衆文学かは、時代背景に依って変わるし、さらにその中身も変化するといいたいのか。なんかしっくり来ないけど、例えば川端康成とか三島由紀夫とか大江健三郎とか持ち出してライトノベルやケータイ小説を批判(といえるほど冷静なこと言ってるかは別として)するのは良くないぜとは言いたい。
あと、大衆文学を退屈を紛らわせるものと書いたけど、そう書くならば純文学は「退屈を批判するもの」なのかもしれない。

