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戦争と平和という対立項がある。すんごく大まかに言えば、一国の歴史はこの二つの状態の繰り返しといえるし、世界史とはその相互作用の結果と言えるだろう。乱暴な認識だと了解しつつ、敢えて使わせてもらう。言いたいのは純文学と大衆文学の境界線のことだ。

純文学と大衆文学というわけ方が有効になるのは「平和」状態のときだと思う。「戦争」状態のとき、文学は政治的に迎合するものと、批判的なものという区別にシフトチェンジする。純文学と大衆文学をわけるのは、大衆に傅く娯楽か否か、だと思うのだが、娯楽は「平和」状態の退屈が発生してはじめてそれを紛らわせるものが爆発的に大衆に広がる。故に「戦争」状態で大衆文学は発生しにくい。
「戦争」状態では、国の政治姿勢に文学は大きく依存すると思うが、この場合上記でわけた「政治迎合、政治批判」という対立軸は、「純文学、大衆文学」というそれと比べて、どちらがマジョリティになるかは不安定である。大衆文学はその名が示すとおり、マジョリティになる宿命がある。しかし「戦争」状態では、戦局に左右される。これは同時に、国民に対して情報が正確に伝わらない場合、政治迎合的な文学が大勢を占めることになり易いことを意味する。話を戻そう。戦局に左右される例は、ベトナム戦争時のアメリカを思い出すと分かりやすい。反戦ムードが海外にまで飛び火し、ジョン・レノンが神様になったあの状態は、戦争をしていたアメリカで、政治批判的文学(文学以外の表現も含む)をマジョリティにさせた。このとき、「平和」状態での「純文学、大衆文学」という区別とは別の論理が働いていたように思う。
「平和」状態ではマジョリティ(大衆文学)/マイノリティ(純文学)は固定されがちで、政治色が薄くなるが、「戦争」状態では政治色が濃く、さらに政治批判的文学と迎合的文学がマジョリティを巡って争う可塑性を持つ。そしてその争いはしばしば国柄や体制によってどちらが優勢になりやすいか変化する、ずるいゲームである。



とか書いてみたが、なんだかなあ。何が大衆文学かは、時代背景に依って変わるし、さらにその中身も変化するといいたいのか。なんかしっくり来ないけど、例えば川端康成とか三島由紀夫とか大江健三郎とか持ち出してライトノベルやケータイ小説を批判(といえるほど冷静なこと言ってるかは別として)するのは良くないぜとは言いたい。

あと、大衆文学を退屈を紛らわせるものと書いたけど、そう書くならば純文学は「退屈を批判するもの」なのかもしれない。
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